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日本語には「分別 ができる」という表現がある。   この分別 はどのようにしてでき上がる のだろうか。   それは、直立 して自由に使えるようになった二本の手によってである。   言葉による思考 や推論 が発達する以前に 、子供は既に手によって分別 ができる。  人間の手は、脳 よりも一足先に 分別 し、考えるのである。 

 

   立って歩き始めた子供は、身の回り のあらゆる 物に興味を持ち 、手で触れて回る 。  平らな 物、でこぼこ のある物、砕ける 物、ちぎれる 物、音を立てる 物、無言 の物、ぬれている 物、乾いている 物、触ると快い 物、不快な 物。   こうして 子供の手は、触覚 によって物の性質を知り、微妙な 差異 を分別 する。   赤ん坊の段階 では自分と物とは区別されなかった。   即ち、物を分けることがなかったから、分かることもなかった。   分かるとは分けることなのだ。 

 

   手で分けること、ここには既に植物学 や解剖学 などの根源 がある。   植物学者は、野山 を歩き回って 、植物という 植物を採集 し、根気よく 分類 する。   解剖学 は、人体 の内臓 を切り分け 、細かい 部分にまで分け入る 。   こうした科学的 行為 も、さかのぼって みると、幼児 の歩行 と手の運動に源 があるように思える 。   人は、科学というと、すぐ厳密な 論理 、法則 を思い浮かべる 。   それは確かに正しいが、本来は 物に対する子供の情熱 であることを忘れてはならない 。   しかも、それは、美 の探究 と同様に 、きわめて根源的な 情熱 である。 

手は左右 二本あるが、多くの人は右利き である。   その原因はいろいろ言われてはいるものの 、定説 はない。   北半球 では太陽の光を身体の右側に多く受けるので、右手が優位 になったと説く 人がいる。   また、人体 は心臓 が左に寄っている ので、左手は専ら 心臓 を守り、右手は道具を使うようになったのだと主張 する人もいる。 

 

   右利き の人は、中心的な 細かい仕事は右手で行う。   矢 を射る 人は、右手で弦 を引き 、左手で弓を押さえる 。   読書 する人は、右手でページをめくり 、左手で本を支える。   このように大昔から 現代に至る まで右手は「分ける」こと、左手は物をつかみ 、全体をしっかり「押さえる 」ことをしてきた。   左手の働きは、補助的な ものではなく、良い効果 を得るためには不可欠な ものだ。   「分ける」前に「押さえる 」ことが先行する。   そして、この二つの働きは、安定 し、うまく統合 されていなければならないものである。 

 

   よく知られているように、右手は左脳 に、左手は右脳 に支配 されている。   左脳には言語 中枢 があり、主に分析的 、理論的 な思考 にかかわっている 。   それに対して、右脳 は、図形 や音楽など芸術的 な認識 や、直観的 、総合的 な思考 に関係がある。  左脳 ばかりを働かせる と、分析的 能力のみ が発達して、常識 には富むが、創造性 に欠ける ようになる恐れがある。   逆に、右脳 の働きばかりが強くなると、理性 よりも感情が勝つというような不安定な 性格になりやすい。 

こう見てくると 、右手と左手、右脳 と左脳 がバランスよく 補い合い 、協調し合っ てこそ健全な 精神 活動 ができるといえる。   心を 統一 したり、神 に祈り をささげたり する時合掌 するという我々の行為 は、まさに このことを象徴的に 物語っている 。 

 

   さて 、現代はどうなっているのか。   このように優れた手の働きが次第に 危機的状況 になっている。   家庭にしても 職場 にしても 、エレクトロニクス によって自動化 されるにしたがい 、手が使われなくなった。   この状況 が続いた末には 、両脳 はすっかり怠け者 になり、やがては退化 してしまうにちがいない。   現に 日本の子供たちは、鉛筆を削る ことも、果物の皮をむく ことも、はしで物をつまむ ことも、ふろしき で物を包むことも、服を畳む ことも、すべて手を使うことが下手になっている。 

 

   自動販売 機 の前で、ボタンを押して品物が出てくるのを待っている人をよく見かける 。  実験用 の猿 がレバー を押しては 出てくるえさ を食べるシーン をつい 連想 してしまう。  人間の優れた手は、機械 文明 によって辱められている ようだ。 

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